フジヤマ!
京都一人旅の帰り道、車窓からの富士山。
関東に住んでいながらここまで近くでまともに見たのは初めてですが、何よりもその大きさに圧倒されます。
写真で伝わるかどうか分かりませんが、周辺の山々より頭2つ分ぐらい抜けてデカいんですよ。
あと、周辺の山が木に覆われてモヤっとした緑色なんですが、富士山だけがくっきりと岩肌が見えているんですね。
イメージ的には、
『プリキュアの集合写真の中央にゴルゴ13が立っている』
みたいな事態です。
あいつ一人だけ劇画タッチなんですよ。明らかに浮いてます。
山頂が雲の上に見えるんだけど、
「マジかよ、あんな高い所に人間が徒歩で登るの!?」
って感じ。
すいません、富士山登山をナメてました。
今までは教科書的に富士山のアップの写真しか見た事がなかったから、「ふーん、でかいんだね」って感じだったんですけど、周辺の景色とあわせて生で見たら、畏敬の念を抱かざるを得ないです。
そりゃ、古来から日本人が色々な所で富士山をシンボライズするのも理解できるわ。
古くは竹取物語にも『不死の山』として出てくるしね。
富士山と竹取物語の切っても切れない話とは?|「マイナビウーマン」
単なるリスペクトではなく、やはり畏れと敬いが混ざりあった畏敬の念、という表現が当てはまると思います。
富士山への人々の畏敬の念の本質を考えてみたんですけど、端的に言って周囲との相対差が大きいという事なんじゃないかな。
要は、周りにデカい山が少ないから余計に引き立って見える、ということ。
例えばもし富士山の周辺に3000m級の山々が取り囲んでいたら、結果的に富士山が一番高いとしても、これ程には人々の心に焼き付かないと思うんですよね。
富士山のシルエットの美しさもこんなに取り沙汰されることはなかったのでは。
逆に言えば、もし富士山のシルエットがブサイクだったとしても、周辺の山々が低かったら、きっと今と同じように畏敬の念を持たれていたんじゃなかろうかと。
造形の評価は結果論ではないかな。
これは、人間の世界にも言える話で、富士山を一人の人間として擬人化して考えてみたら、そこに何となく、楽しく生きるヒントが見えた気がしたんですね。
どういう事かというと、
周囲の人間との能力的な相対差が大きい程、評価が高まるんじゃないか
ということ。
具体的には、
- ヤンキー校の学年トップ
- 万年最下位の野球チームの四番エース
- ドブスだらけのキャバクラの絶対不動エース
みたいな感じでしょうか。
まあ極端な例ですが笑
もちろん大前提として、自分の能力値が一定の高さに達している必要がありますけどね。
でも、
努力して自分の能力を高めていく事はもちろん大切なことだと思うんですけど、周りが凄すぎて自信をなくしてしまいそうな時に、こういう考え方があってもいいんじゃないかなと。